計画総崩れの日でも
今日は「仕事が終わったら絶対アレとコレらやるんだ!」と決めていた。
しかし現実は、別の用事は入ってくるわ、必要なものを忘れて出かけるわ、目的のものはまるで使えないわ、全く身動きとれなくなるわ、のオンパレードだった。
そんなわけで考えていた計画は、結局、何一つ達成されず、計画総崩れの1日となってしまった。
もう今日もあと1時間で終わりって時に
この間読んだ本の内容を思い返す。
身体、活動、思考は停滞していても
実はそんな時は、今まで使ったことのない何かが動き出している。
だから手を動かしてみよう。
別の思考が出てくる。自由が生まれる。
というような言葉が書かれていた。
こうして「何も出来なかった!」って腐りそうな心にはよく響く言葉だなあ……。
そんなわけで、今こうして手を動かし
この日記を書いてみた次第。
今日できなかったことの代わりに
一体何が自分の中で動いているのか
それはまだわからないけれど。
明日がんばろ。
なかぐろマジック
この文字に読み方はあるのだろうか?
と強く疑問に思った文字を挙げるなら
「・」が自分の中での代表格だ。
数年前、ひょんなことで「・」は「なかぐろ」と読むことを知り、びっくり仰天!
それ以来、スマホやパソコンの入力でも記号欄から選択せず、わざわざ「なかぐろ」と打ち込むほどのお気に入りの文字になった。
そんな「なかぐろ」
外国では「バレットポイント」という呼び名らしい。
おお……かっこいいではないか!
たまたま図書館で手に取った本にそう書いてあり
愛用の「なかぐろ」のことなら是非!!と読み進めた。
本のテーマである「バレットジャーナル」とは
箇条書きと記号を組み合わせて、タスクやメモに活用する管理方法。
「なかぐろ」が主役なのも気に入ったが
・必要なのはノートとペン1本だけ
・ノートの種類を選ばない
・デジタルとアナログの併用ができる
・自分の用途に合わせてカスタマイズ可能
という自由さも自分にハマった。
まだ二週間ほどだが
毎日のタスクメモに活用できている。
私の場合はノートではなく
その日のタスクをメモ用紙に書いて
手帳のカバーに日替わりで貼るようにしている。
終わったメモは撮影して
画像としてスマホに残し、紙は捨てる、といった、デジタルとアナログを両用するようにした。
ノートやメモが行方不明で書けない、とか
書き終わったものがごちゃごちゃに増えるだけ、という問題は少なくとも解消できそうだ。
偶然、手に取った本を
「なかぐろマジック」が完読させてくれた。
よき出会いだった。
21-21「元通りに戻ろうとしない」
調べ物をしているときに
たまたまそこに貼られてあった動画を
ふらっと見に行った。
小さなサムネイル画像に写った動画主の顔が
なんだかとても濃くって……
とても強烈な個性を放っていたのだった。
再生してみると
その強烈な個性に加えて
あまり他で見ないような独特な喋りをしていて
ますます強烈な個性が炸裂しており
いつしか話に引き込まれて視聴していたのだった。
その人は動画でこう言った。
「改善や向上によかれと思い、やり方を変えてみたら、前の状態よりもっと低迷してしまったという経験はありませんか?僕はあります」
おお……その話、ぜひ聞きたい!
といつの間にか前のめりで聞く自分。
その人は続けて「その低迷からの脱出方法」として3つ挙げた。
1)今のやり方をやめて、元のやり方に戻す
2)今のやり方を信じて、もう少し続ける
3)元にも戻らず、今のも続けず、全く違うやり方を見つける
さああなたならどうしますか?
と。
その動画主が勧めるのは(3)のやり方だった。
多くの人は(1)をやろうと必死にもがく。
でももう元通りに戻るなんてことはできないのが現実。それに気づかなければ脱出はない。
そうかと言って(2)ではもっと苦しみばかりが増し、延々成果の出ない合わないやり方に潰されていくだけ。
だから(3)を見つけにいくのが自分のために一番いい。
なるほど……!
その言葉はズドンと響くものがあった。
今の私にすごく重要なことだと感じた。
そして
コロナ禍である現状の社会もそうだな……って思った。
コロナが落ち着いたとしても
生活様式はコロナ禍以前の暮らしにもどることはもうない。
新しい暮らしのあり方を
状況に合わせて変化し続けていくことになるのだ。
この動画にいいタイミングで出会えてよかった。
さてブログも二度目の「三週間チャレンジ」としてトライしたのだが
一度目と違って、まったく上手くはいかなかった。
一度目のように21日間続けたわけではなく
行き詰まりと思い悩みで更新停滞を挟みながら
どうにかやっと21回を書き終えた、という有様になってしまった。
全く「三週間」とは程遠い時間がかかってしまった。
明日からは
また視点ややり方を考えてみることにしよう。
21-20「同年代」
図書館で借りて読んだ本の著者の中には、私と同年代の方々もチラホラいた。
子ども時代〜数年前までは「本の著者」なんて、自分よりもずっとずっと上の世代の文豪とか、どっかのお偉いさんが書いてるみたいな印象だったが、ずいぶん世代的には身近になったのだな、と感じた。
本を開いて、著者プロフィールを読み、自分の生まれ年にビンゴやニアミスの著者の場合は「やあやあこんにちは!読んじゃうよ!」みたいな親近感が勝手に湧くのは不思議なものだ。
また世代が違っても、自分の出身地や居住地が近い著者だと「おお!!地元民だ!!」って親しみが湧く。
逆に、名前と現職までの功績みたいなのはたくさん書いてあるのに、生まれ年や出身地が書かれてないプロフィールも割とある。
○○大学をでてる、とかナントカ会社の代表やってる、というのだけを見ると「へぇ……すごいね」と感心することはあるけど、出身地や生まれ年ほど親近感が湧く感じにはならなかった。
そういう意味では、著者プロフィールは、読み手に共通点を持たせる要素が、ある程度ある書き方の方が、本編の中身にも入って行きやすいんだな、と思った。
さて、何人かいた「同世代著者」が書いた本のひとつに「本はぜんぶ読むな」という考えをかいている内容のものがあった。
で、こちらも
「へえ、それならこっちもつまみ食いだけで済ましちゃうよ?」
みたいな応戦のつもりで読み始めたら……
これが絶妙に面白く
なんと最後まで読破してしまった(笑)やられた(笑)
実例を小説風に書いた後に、その解説を書いてる。2つのモードが交互に描かれる形式で書かれていた。
小説モードなど飛ばす気満々だったが、主人公設定の青年が、めちゃめちゃ自分に重なる部分が多く、予想外に引き込まれてしまったのだった。
「ぜんぶ読むな」という主張の本を、ぜんぶ読ませるとはおみそれしました(笑)
悔しいけれど、著者の一本勝ち。
いいなあ、こういう「こちらが負けました」的な面白い文章が書けるって素晴らしい。
それを、自分と変わらない同世代の人がやってのけている。さらにさらに素晴らしいことだ。
21-19「当たりといえば当たりだが」
先日返した本たちの内容を振り返ってみる。
ある解釈本に記載されてた一言が引っかかる。
「太陽のタロットカードの山の壁が気になる場合は、心の中になんらかのブロックがある」
とその本には書かれてあった。
……??そういう解釈??
とは思ったが
まあなるほど、当たってるといえば当たってはいるのか?
実際、この赤い壁が何なのかが気になりすぎて、こうしていろいろ停滞してるものもあるから(笑)そういう意味ではブロックっていうより、まさしく「壁」の他ならない。
返却期限がきてしまい、一度資料を戻してしまったため、時間を置いてもそれでも再び調査再開できるか?を問う「壁」とも言えるかもしれない。
まあしかし
「壁だからブロック」っていうのもどうなんだろう?
その壁に興味があるわけだから「障害としての壁」で片付けられないような気もするのだ。
あのカードの製作者の言葉を引用すれば
ある紋章学の専門用語
が、このカードを表しているらしく
あの「壁」は「術式の象徴」
らしいのだ。
その紋章学の専門用語とやらも気になるし
術式というのがどういう術なのかも
調べるには至ってないために
「ブロック」で終わりにするのはちょっと腑に落ちない。
そもそも開放的な希望や未来に満ち溢れたカードに「壁」があるのはもっと、こう、深い意味があるのではないかと思ってしまう。
納得のいく答えがあの囲いの中にあるかとおもうと、ちょっとワクワクもする。
ブロックにワクワクはしないよな(笑)
2-18「また次の予約まで」
借りた本を返す期限が来てしまった。
今回はいろんなジャンルの本を借りすぎて
読むのに時間がかかってしまったのは失敗だった。
まだ数ページしか読み進んでないのもあり
これらは一旦返してまた次の予約を取るしかないだろう。
今回借りた本で
やはり目を引いたのは山の図像たちだった。
緑にも山にもそして土にも
それぞれの普遍的なイメージがあり
太古からずっと現代まで引き継がれているのはすごいことだ。
「なぜ山に登るのか」という問いに
「そこに山があるから」と答える
その言葉を初めて聞いたのは
確か小学生の頃だった。
あの山の上には何があるんだろう?
自然界の山だけではなく
物事のクライマックスに「山場」と名付けた昔の人々は的確だ。
大小なりとも常にいろんな「山」を目指して歩く日々。
今は読書という山に
躓きながら登っているんだなと感じた次第である。
21-17「読解力が足りない」
家が図書館だったらいいのに、
そう思う少女時代があった。
が、しかし
そんな思いはどこへやら。
学校を離れると活字からも遠のく日々。
そんな私だが、最近また図書館が
身近になりつつある。
そういう流れで何冊か読んで感じたのは
「これほど書き方に違いがあるものなのか」
ということ、そして
「こんなに自分は読解力が足りないのか」
ということだ。
厚くてもすんなり読める本があるかと思えば
薄いのに全然進まない本もある。
まさに前回読んだ「本A」と
今現在読んでる「本B」がそうだ。
思いや研究成果を言語化し
それを書籍にできる人たちなのだから
相当頭も良いんだと思う。
著者プロフィールも実にABともにどっちも豪華。
だが……
本Aは、書いてることが難しすぎて理解が全く追いつかず、ページめくるのがつらいと思うほどだった。
たぶんこれ「読み手も頭がいい人であることが前提」で書いてあるんだろうなあ……って終始思った。
そして本Bの方は、とても興味惹かれることも書いてはいるのだが
すごく具体的な説明が延々と続き、いつも間にかその章が終わってしまっていて
「あれ?冒頭で言ってたことの結論って結局なんだったのかな?」
とまたページをめくりかえして結論の部分を探しに行く。
説明を読むのに疲れてしまって
その間にちょこっと挟まれていた結論を読み飛ばしていた、というようなことが何箇所もある。
自分が結論を見抜く読解力が足りてれば
もうちょっとサクサク読めるのかもしれないが
気が滅入りそうではあるがあとちょっと格闘してみよう。