21-拾伍「絶対の真実」

考え方も受け取り方も

人それぞれなのは当たり前で

だから自分が時に受け入れられないことは

きっと仕方がないこと。

言葉で通じない人がいるのもしょうがない。

 

だけど、今まで自分を受け止めてくれた人たちが

確かに居た事実は忘れないし

きっと今もそういう人たちはどこかに居るし、

この先も出会う。だから私は大丈夫。

 

……と、今日書くテーマについて

そういう結論に辿りついた時、

 

あれ?これってずーーっと前にも

似たようなこと書いたことあったぞ?

と気づき、自分のブログを遡ったら、あった。

 

そうだもう10代の頃から私はそうだったんだ

って改めて納得。

 

過去記事は、

授業で習った「山のあなたの」という詩の解釈が

教科書と自分では真逆で、衝撃を受けた思い出を取り上げている。

 

 

教科書の解説では「悲嘆に暮れる詩」であり

対する私の解釈は「希望の詩」だった。

 

正解だとされる解釈を聞かされても

私は断固、自分の解釈を変えなかった、

というのが学生時代の思い出だ。

 

その記事では

私としては、

「見つけられなくても、その希望は消えたわけではなく、遠くてもちゃんと存在している」

という「希望の詩」だった。

という学生時代の想いと

自分と人とは違う、人と人はみんな違う。

そしてその違いは想像が及ば無いことも多くて、

良くも悪くも触れてみないとわからない。

というブログを書いた当時(1年前)の気持ちの両方を書いている。

 

冒頭の「本日のテーマの結論」と同じだ。

 

 

私はこういう考え方で自分を支えてきたんだな、って改めて思った。

 

自分の詩の解釈を絶対に変えなかったのは

それが絶対に壊しちゃいけない自分の真実だったからなんだ。

 

 

人はみな自分とは違うってことは認めなきゃいけない。

だけど自分と繋がるものは必ずどこかに存在している。

今見えなくても、今は何もなくても。

他の誰かが「そんなものはない」と言おうが

私の中には絶対あるのだから

 

心の中にそういう希望を持ち続けることで

辛い現実から回復を繰り返しながら歩いてきて

これからも山の向こうを目指して歩いていく。

それが自分という仕組みなんだな、きっと。

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「杯の王子」

このカードがガッツリ占めてる自分のハウス、

その場所に入ってる理由がわかった気がする。

先日「死」のカードで書いたテーマや

過去の「山のあなたの」で感じたようなことを

心から消さないこと、それが気持ちの拠り所であり、

回復のやり方になってたんだなあ……